少し前の話である。 もう、空いてきただろう…と、家内を誘い、映画を観にいった。
シリーズ第7作目となる『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』である。
土曜の朝9時過ぎのシネマコンプレックス、我々を含め10人で、ほぼ貸切状態のようなものだった。
『スター・ウォーズ』シリーズはすべて見てきたので…、
今まで通りの出来栄えで、なんだかホッとし、不思議な安心感があった。
最後に「つづく」とはなかったが、もう第8作を作っている…実に分かり易い。
『スター・ウォーズ』の内容については、あえて小生が論じる必然はなく、残念ながら、評論すべき知識も持ち合わせていない。
ただ久々に映画館に行き、やたらに気になったことがあったので、書き記しておきたいと思った。
シネマコンプレックスでは、本編が始まる前に必ず近日公開の「予告編」を流す。
たまたま、偶然だったのかもしれないが、今回の予告編、殆どは「争(あらそ)いもの」だった。
人間同士、あるいはエイリアン対地球軍等々、とにかく「戦争もの」ばかり。最新鋭の音響装置からフルボリュームで発せられる「激音」は、耳、頭のみならず、全身を駆け巡り、体を震わせる。
コンピュータグラフィックを駆使した最新のアクションシーンは、大地を粉砕し地球すら滅亡に導く。
超絶技巧を有した殺人技は、スクリーンいっぱいに血吹雪をまき散らし、壮絶な殺戮シーンが繰り返される。小生のような気の弱い、小心者は、本編に入る前にうんざり、気色の悪い思いの中で本編を見ることになった。が、よく考えれば本編そのものも、「戦争ごっこ」、闘いものであった。
映画に限らず、映像モノ、特にゲームの世界はそれ以上、戦争ものに牛耳られているようだ。
これらのゲームを、「いい加減、人を殺すゲームにも 飽きたよ」と内心は感じながらも、結局は遊び続ける若者が多いと聞く。勝利を手にするには、一体、何人殺せばいいの?
小生ゲームを殆どやらないので、あるいは正確ではないかもしれないが、最近では、鳥肌立つような残酷性を回避した、安心して、人殺しを楽しむことができるシーンとなっているようである。
たとえば、死体が残虐に飛び散ることもなく、透明になって消えるだけのシーンなどだ。
画面の向こう側で、実際に人が死んでいないこと、ゲームを遊んでいる人間であれば誰でも知っている。だからこそ平気で殺戮を楽しみ、壮絶な戦争を繰り返し、征服者としての勝利を満喫させる「戦争ゲーム」に夢中になる。
ゲームや映画だから、恐らく彼らには全く、良心の呵責は存在しない。
どうしてこんなに「戦争が好き」なのだろうか?
映画監督の宮崎駿氏が『宮崎駿の雑想ノート』(大日本絵画; 増補改訂版 1997年刊)で、自分自身が「戦争反対」を掲げながら、戦争に使われる道具である、戦車などの兵器が大好きで仕方ないという自己矛盾に対して、自分の頭をポカポカと殴る一コマを思い出した。
今どきの社会学者は言う。
映像はあくまでバーチャルの世界、現実とは全く違う。戦争には絶対に反対が現実で、ゲームや映画の中の戦争は娯楽としての別次元だと、言いきっている。
でもやっぱり、小生のような気の弱い、小心者は、もう、「うんざり」である。
2016年2月28日
カテゴリー:飯島賢二のコラム