イイケン先生の『恐縮ですが…一言コラム』
先日あるセミナーの中で、自分の趣味について話すハメになった。
いくつかある趣味の中で、一番長続きしているのは、音楽を聴いたリプレイしたり…かもしれない。もう随分永い間、クラシック音楽を聴いてきた。
4~5歳のころだろうか、我が家には「蓄音機」があった。
確か、グラモフォンを覗き込む「ニッパー」犬で有名な、あのビクター社のものだったと記憶している。
SP レコードが何枚かあったが、その中に「ビゼーの歌劇『カルメン』の第1幕への前奏曲」があった。
クラシック音楽と言えるものはそれだけ、たった1枚で、何であったのか、未だに全く分らない。
蓄音機のぜんまいを手で巻き上げながら、ミシン針のようなレコード針を何度となく取換え、レコード盤 が擦り切れるぐらい、何度となく聞いていた。
これがクラシック音楽との出会いだった。
小学校の三年生から「ピアノ教室」に通わされた、そう、有無を言わさぬ、強制であった。
昭和30年代、当時ピアノのお稽古は珍しく、今思うと全く繁盛しない「お教室」、先生も大変だったろう が、少ない生徒さんの大部分が女の子、男の子は僅か2人だったと、あとで聞いた。
当然ピアノが、嫌で嫌で仕方がなかったが、姉の後にくっついて、しぶしぶ通っていた。
ピアノを習い始めたと同時に、我が家にどでかいピアノが来た。
環境は見事に整いつつあったが、決してピアノは上手くならなかった。
へたくそな腕前でも、何より音符が読めた。
当時、「五線譜」が読める子供、いや、大人も含め、あまりいなかった。
しかもそれを、いつでも「音」として確認できる。
そんなことがうれしくて、それがクラシック音楽にはまり込む元となった。
中学、高校、そして大学まで、吹奏楽やオーケストラの一員として、トランペット、オーボエなる楽器を 吹いていたが、生来の怠け者、どちらも決して上手くなかった。
口八丁手八丁の「指揮」が、自分には一番向いている…と思い込んだ。
中学校のブラスバンド、レストロアルモニコ管弦楽団(成城大学)、白百合女子大弦楽合奏団等、夢中に なって指揮、しまくっていたかもしれない。
社会人のコーラスにも参加、小澤征爾指揮、新日本フィルハーモニー、東京上野の文化会館でハイド ンのオラトリオ「四季」にも出演した。そのライヴはレコードになり、今でも私のライブラリーにある。
音楽のおかげで「かみさん」と知り合った。
彼女は中学から一貫してヴァイオリンをこよなく演奏し、その技量はそこそこ達者である。
今でも仲間とチームを作り、演奏会の開催や老人ホームの慰問等を実践している。
私のオヤジは全くの実利主義者、芸術とはおよそ無縁で、愛や浪漫を語るタイプではない。
でも、そのオヤジがいつも言っていた言葉は、かなりの薀蓄があった。
「芸術は最高のものを観なさい。陳腐な芸風に染まると目も、耳も、頭も、その通りに感染する」
音楽を通し、今、幸せな人生を送ることができるのも、やっぱり、オヤジとオフクロのお蔭なのか、未だ 両親には敵わないというべきか、こっそりだが改めて、感謝する次第である。
2015年11月1日
カテゴリー:飯島賢二のコラム