ある夫婦の話である。 晩酌の時、いつも無口の夫が、「ちょっと、お酌してくれないか?」と珍しく妻に言った。 台所の片付けをしていた妻は、「今、忙しいから自分でやって」と答えた。 夫は少し寂しそうだったが、手酌で酒をついだ。 その、2~3時間後、夫は急に倒れ、救急車で病院に運ばれ、 帰らぬ人となってしまった。 あの時何故、もっと優しい言葉で、こぼれるような笑顔で、感謝の言葉で、 接することができなかったのか…それから、妻は、 何故あの時、夫にお酌をしてあげなかったのかと、ずっと悔やんだという。
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ある法事でご住職から、こんな話をお聞きした。
誰もが、今日と同じ日が、明日も繰り返されると思っているし、決して疑わない。
今日、誰かと出逢い、話し、笑い、食事をして、仕事ができる。そして、当然のように明日も…。
我々は、毎日起こる出来事を、「あたりまえ」だと思って過ごしている。
歩けるのが、あたりまえ。目が見え、耳が聞こえるのが、あたりまえ。手足が動くのが、あたりまえ。
健康な人にとっては、健康があたりまえでも、障害者にとっては、そうであること自体が難しい。
大切な人と明日も会えると思っていたのに、永遠の別れになる事もあるかもしれない。
五体満足でいることが”あたりまえ”だと思わず、今日も無事、生きていることが、もしかしたら奇跡なのかもしれない。
「奇跡」とは、「あたりまえ」でなくなった時、滅多にないことが起こることである。
滅多にないことに巡り合う、つまり稀であることを、「有ること」が「難(むずか)しい」と書く。
この「有ることが難しい」が、「有ることが難しいことを感謝する」という意味の「有難(ありがた)い」という言葉、さらに「ありがとう」という言葉に転じたそうだ。
~得生人道難 生寿亦難得 世間有仏難 仏法難得聞~『法句経』
(人に生まるるのは難(がた)く、やがて死すべき者の今命あるは有難し。世に正法あることは難く、仏法の教えを聞くは有難し)という仏教の教えが、「ありがとう」の語源となっているとのことだった。
ということは…「ありがとう」(=「有難し」=「奇跡」)の反対語は・・・「あたりまえ」ということになる。
我々は、毎日起こる出来事を、当たり前だと思って過ごしている。
でも、生きて、出逢う、というこんな「あたりまえだ」と思っていたことが、本当は「奇跡の連続」であること、あることが難しい「有難う」と思う心が、忘れてはいけない大切なことに気付くべきなのだ。
法事のたびになんとなく御唱えする『摩訶般若波羅蜜多心経』、究極の奥義は、この「ありがとう」と「感謝」だということ、今日初めて、ご住職から教えていただいた。
引用:「あなたは『ありがとう』の反対語を知っていますか?」 http://cadot.jp/impression/10092.html/1
2015年11月15日
カテゴリー:飯島賢二のコラム