お笑いタレント、司会者、作家等々多方面で活躍されているビートたけし。
彼こそはコンプレックスの塊だと、小生、密かに思い込んでいる。
コンプレックスとは劣等感という意味と、複合的(才能)という意味付けを無理やりしてみた。
陰(いん)のコンプレックスの代表が三島由紀夫だとすれば、
北野武は、明るすぎるコンプレックスの親分と言って良いかもしれない。
個人的に、三島の中には、小生の永遠のテーマみたいなものがあるが、
北野武は、あまり好きなキャラではなく、特に俳優、映画監督という肩書は「勘弁」である。
そうはいえ、溢れ出る才能だけは、客観的にも認めざるを得ない。
その北野武氏の「作法」についての話が、今ネットで評判だ。今回はその一部を、ご紹介する。
…具体的な細かい作法をいくら知っていても、 本当の意味で、他人を気遣う気持ちがなければ、何の意味もない。 その反対に、作法なんかよく知らなくても、 ちゃんと人を気遣うことができれば、大きく作法を外すことはない。
駄目な奴は、この気遣いがまったくできていない。 人の気持ちを考えて行動するという発想を、最初から持っていないのだ。
他人への気遣いで大切なのは、話を聞いてやることだ。 人間は歳を取ると、どういうわけかこれが苦手になるらしい。 むしろ、自分の自慢話ばかりしたがるようになる。 だけど、自慢話は一文の得にもならないし、その場の雰囲気を悪くする。 それよりも、相手の話を聞く方がずっといい。
料理人に会ったら料理のこと、運転手に会ったらクルマのこと、 坊さんに会ったらあの世のことでも何でも、 知ったかぶりせずに、素直な気持ちで聞いてみたらいい。 自慢話なんかしているより、ずっと世界が広がるし、何より場が楽しくなる。
例え知っていたとしても、一応ちゃんと聞くのだ。 そうすれば、専門家というものは、きっとこちらの知らないことまで話してくれる。 井戸を掘っても、誘い水をしないと水が湧いてこないように、 人との会話にも誘い水が必要なのだ。
|
これはいい話だ。いくら「下品さ」をカモフラージュしても、細心のデリカシーの持ち主である北野武、本質を説く思いが伝わってくる、素晴らしい話と出会うことができた。
2015年11月29日
カテゴリー:飯島賢二のコラム