第483回 性善説と性悪説
今から2,300年ほど昔、今の中国では春秋・戦国時代の真っただ中、諸子百家と言われる様々な思考や考え方が誕生し、のちの儒教や道教などの礎となった。
そんな中、孟子という人と荀子という人物が、『人』の本来の姿ということで真逆の意見を展開した。
孟子は人は本来善行をするものという『性善説』を唱え、方や荀子は人は本来悪行をしてしまうものという『性悪説』を唱えたのだ。
さて、この性善説と性悪説、人の本来はという議論ではなく、今回は仕事の現場ではどのように働くのか考えてみたい。
特に考えたいのが部下に対しての場面である。
例えば、性善説であれば、部下は言われなくてもまじめに働き、能力に差はあるものの道徳的に反する行動はしない。
しかし、性悪説であれば、しっかり管理しなければ悪い方へ悪い方へ行ってしまう。
ではどちらなのであろうか。
私個人の考えとしては、どちらにも当てはまると思っている。
なんとも答えがあいまいで申し訳ないが、現場を見ているとそう感じざる負えない。
同じような経営の研究として、ダグラス・マクレガーのXY理論が挙げられる。
ここでは性悪説=X理論、性善説=Y理論として考えてみたい。
X理論は人間は本来怠けたがる生き物で、責任を取りたがらない、目を離すと仕事はさぼるという理論であり、Y理論は人間は本来働きたがる生き物で、自己実現の為に自ら行動し、問題を解決する生き物であるという理論。
このマクレガーのXY理論で考えた場合、なるほどどちらも備わっていると言えるのではないだろうか。
現場に置き換えて考えてみる。自社の就業態度と意識の問題で、なんとなく雰囲気が悪く、目を離すとさぼってしまうようなケースは性悪説寄り。
その場合はいわゆる『飴と鞭』の手法が効果的である。
インセンティブ報酬とペナルティである。
それにより就業効率を高め、業務自体の質を上げていく。
しかし、これには限界があり、一定期間たつとインセンティブへの慣れや、ペナルティを回避するための方法など就業効率以外の部分で進化していってしまう。
そのため、早めに性善説に移行する必要がある。
性善説よりの雰囲気では、経営者や管理者がすべてを管理しなくとも、就業中に様々な工夫が自発的に発生するのである。
まさに理想ともいえる。
そのためには、飴と鞭ではなく、モチベーションを高めることが必要である。
まとめると、性悪説の場合は飴と鞭に頼ることで就業効率を上げる必要があるが、一定以上になった場合はコミュニケーションを深め、部下のモチベーションを高め仕事の意味や、就業間の高揚を必要とするのである。
なんとも学術をひも解いてみたが、当たり前のことの感じる。
大切なのことは自身の現場へこれを落とし込むためのスタイルを構築することではないだろうか。