第468回 日本が誇る最たるもの

 今年の3月末に仕事でイタリアのローマに行った。

 はじめてのヨーロッパということもあってか、小生としてはなかなか文化の違いに戸惑う場面が多く、なんとも様々な経験をさせて頂いたと感謝している。

 そのうちのいくつかをご紹介すると、まず入国審査からであった。

 入国審査のブースがEU諸国とアメリカは別ブースになっており、てきぱき進む、しかし、アジアブースは長蛇の列ができている。

 アジアブースに並んでいるのは日本人と中国人がほとんどであったが、審査が厳しいのもさることながら、入国審査員と中国人が喧嘩のようなやり取りをしている場面が目立ったのだ。

 現地人の日本語が分かる人に後で伺ったのだが、中国人の風習の中にはまず、並ぶという観念が薄い、そのため、次から次へと入国審査へ押しかけ順番を守らないのである。

 そこで、イタリア人の入国審査員が順番を守るようにといちいち注意するということ、尚且つ、イタリア人は仕事上での日本的に言う愛想を必要としていない、そのためか、あんまり中国人が言うことを聞かないと、いらいらし怠惰な仕事になり、場合によっては長蛇の列もお構いなしにブースを閉めてしまうということである。

 なんとも文化・風習の違いとはいえ、中国人とイタリア人の風習の違いに参ってしまった。

 また帰りの飛行機での話だが、長いフライト、映画でも見ようかと思っていたのだが、小生の座った座席のモニターが映らない。

 CAを呼んでその旨を話したら、CAから返ってきた答えに驚かされた。

 『我々の仕事は、あなたを無事に成田まで送り届けることだ。モニターが壊れていることは別に大きな問題ではない。』というのである。

 言っていることはさもあらんというような内容なのだが、なんとも納得いかない話である。

 このような話はヨーロッパには数多くあるようだ。

 例えば、列車が遅れたとされる基準は何分かという問いに対し、日本は1分でも遅延とされるのに対し、ドイツは5分、イギリスは10分、イタリアは14分など、多い国では30分以上の遅れでも当たり前だという。

 これらの話、日本ではありえないと思われることだが、そもそものヨーロッパの常識なのである。

 なので、彼らは何も悪いとさえ思わない日常茶飯事なのだ。

 ここで思うこと、日本人はなぜ違うのかということである。

 それは、日本人の意識の根底に他人に迷惑を掛けない、相手を思いやる、そんな精神が根付いているからではないだろうか。

 先日のサッカーワールドカップでも注目されたごみを拾うサポーターのように、日本には誇るべき、思いやりという精神がある。

 富士山や、世界遺産以上にこれこそ、日本が世界に誇れる最大の魅力ではないかと改めて思うのである。

第467回 物流の進化がもたらすもの

 旅行に行く目的の一つに食事・料理という項目が必ずある。

 海に近い観光地に行けば、地元の漁港で獲れた新鮮な魚介類、山の中の温泉地に行けば、地場で獲れた山菜や野菜、更には地元ならではのブランド肉などその場でしか味わえない新鮮なものを楽しむ、これが旅行の醍醐味である。

 しかし、そんな常識が今や通用しなくなってきているのではないだろうか。

 一つは都会の存在である。

 例えば、東京都内であれば、北は北海道から南は沖縄まで、ありとあらゆる食材が手に入り、それ専門の食事処も数多く存在している。

 きりたんぽが食べたいなと思った場合、わざわざ秋田まで行かなくても、インターネットで検索すれば、東京都内だけで20店舗位秋田料理屋があり、へたをすれば近所のスーパーで売っているのである。

 これは交通網の発達やそれになんといっても物流の進化が素晴らしいのである。

 みなさんも利用したことがあるかもしれないが、いまや文房具や書籍といったものの多くは、店に行かなくても翌日には届くのである。

 まさに瞬時にニーズ喚起から注文までできるインターネットと、それを可能にする物流サービスが織りなす画期的な仕組みなのである。

 その仕組みを今や食料品、さらには飲食業界も取り入れ始めている。

 例えば、北海道で朝獲れた魚介類を猟師さんがスマートフォンで撮ってホームページに掲載、朝6時くらいにもかかわらず、8時までには注文が確定し、そのまますぐに出荷する。

 そうすると、東京の注文した家に17時くらいまでには到着し夕食に間に合うサービスがある。

 つまり北海道産の取れたて新鮮な魚介類がその日の夕食には食卓に上がるのだ。

 これは北海道だけではなく、これから様々な漁港で行っていく方向だそうだ。

 このように、物流の進化によって食材のあり方が大きく変わっているのである。

 そのため、大きな意味で言えば、旅館で提供しているような料理・食材というものはありふれているものになり、勝負すべきライバルは近郊の旅館ではなく、もはや都会の飲食店なのである。

 では、そんな時代にどのように対抗していくのか、都内の同じ食材を使った飲食店と対抗していくのか。

 それは『旅』ではないのかと思う。

 抽象的な表現で申し訳ないが、料理にも『旅』が入っている。

 それが旅館料理なのではないだろうか。

 そう考えると、山の中の旅館で魚介類を提供するところがあるが、何ともそこに『旅』があるとはどうも思えないのである。

 ましてや、温かいものを温かいうちに提供できないなど、言語道断であると言わざるを得ない。

 繰り返しになるが、物流の進化したこんな時代、意識し対抗すべきは近郊の旅館はもちろんだが、都会の飲食店だということをお忘れなきよう。

第466回 衣食足りて礼節を知る

 温故知新ということを前回書かせていただいた。

 そして今回は、『衣食足りて礼節を知る』について書かせていただきたい。

 出典は前回同様中国の春秋時代、斉の国宰相をつとめた管仲の言葉である。

 管仲は国王に国の政治について聞かれ、『倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。』と答えたとされている。

 つまり、まず民生の安定があってこそ政治が行えるということである。

 なので、最重要としたことは、まずいかに税金をとるかや強兵を行うかではなく、民生を栄えさせることとしたのである。

 この語が後世になり短くまとまり『衣食足りて礼節を知る』となったとされている。

 以前もこの話に触れたことがあったのだが、先日ある旅館でこの言葉を印象付けさせられるような出来事があった。

 その旅館は、バリアフリーに力を入れており、階段や廊下の手すりはもちろんのこと、館内のあらゆる場所の段差をなくす改装工事を行った。

 そのおかげをもって、県から福祉に力を入れている賞賛すべき旅館であるとの表彰までされた。

 しかしである。その努力は結果報われず、それからそんなに時がたたないうちに再生しなければ立ち行かない状況になってしまったのである。

 原因はバリアフリーを行うために発注した改装工事の借入金の返済が経営を圧迫したのである。

 まさに本末転倒の話だと言える。

 営業においては、アピール不足も重なり、その旅館を利用した不自由な方は正直そんなに多くはなかったのだ。

 むしろ、バリアフリーにしたために、以前の趣のある旧来の日本家屋風の佇まいから、追加改装工事であったことも重なりなんとも無骨な内装になってしまったのだ。

 そのため、一般客の利用はむしろ減ってしまったのである。

 旅館、そして金融機関の査定、すべてにおいて現状のその旅館の分析、マーケティング、ターゲットの選定、営業戦略と見誤っているのである。

 最近、よく『身の丈経営』という話を耳にする。

 自分の身の丈に合った経営をせよ、背伸びはするなという意味であるが、私としてはきちんと経営方針と将来ビジョンが確立されていれば問題はないと考えている。

 しかし、それにはまず、自分の今の足元の経営状況をしっかり見極め、今の状況できちんと体力を付けなければいけないのである。

 福祉という甘美で耳触りのいい言葉ではあるが、本丸である経営を揺るがしてしまっては本もこうもないのである。

 まさに『衣食足りて礼節を知る』のように、自分の現状を安定化させることが次の第一歩なのである。

 優先順位を履き違えることなかれ。

第465回 獺祭に学ぶ 温故知新

 『温故知新』という四字熟語がある。

 これは中国の諸子百家の時代、孔子の『論語』の中にある言葉で、前に学んだことや昔の事柄をもう一度調べたり考えたりして、新たな道理や知識を見い出し自分のものとすることとある。

 このことこそ、これからの生き残りの時代の一つのキーワードではないかと考えている。

 さて、先週の『獺祭』について触れて行きたい。

 獺祭は前述のとおり、日本酒の中で今最も人気のある日本酒と言っても過言ではなく、市場ではなかなか手に入らず幻の酒とまで言われている。

 特徴としては、『酔うための酒から 味わう酒へ』ということを掲げ、吟醸、大吟醸へこだわりをみせ、磨き二割三部という純米大吟醸酒を製造した。

 また、杜氏という古来より続く造り酒屋専門の職人制度を廃止し、従業員全員で酒造りを行うということをおこない、コンピューター管理を行い管理することにした。

 そのことにより、安定した製造と妥協をしない酒造りが行えるようになったという。

 ここで注目したいのは、新たな取り組みという部分である。

 正直、様々な品評を耳にする中、獺祭の関係者には申し訳ないが、賛否両論様々である。

 もちろん称賛の声も多いのだが、古くからの日本酒の愛飲家の中には、日本酒らしさに欠けるや、澄み切りすぎていて別の酒であるなどといった声もあるのだ。

 ここで、獺祭の味について述べるのは控えるが、当然のことなのかもしれないが、新しいものに取り組む際には多くの批判があるということである。

 しかし、獺祭では、杜氏という制度は廃止したが、それ以上に原料の山田錦にこだわり、従業員には徹底的に妥協しない味作りを行い、苦慮に苦慮を重ねてできた酒が獺祭であり、そして、この酒のファンになる人が多くいるということなのだ。

 大切なことは、原点である酒造り、原材料へのこだわりや味へのこだわりは失わずに、新しい取り組み、かつての制度を廃止するという勇気なのだと思われる。

 百人いて百人に好まれるということは難しいし、現実不可能なのではないかと思われる。

 しかし、何が一番なのかはそれぞれであっても、百人に好かれようとする、好かれるための努力は惜しむべきではない。

 しかし、それはなにも奇抜な発想、奇をてらった施行というわけではない。

 しっかりと足元を固めた上で、上に建てるものが決まるのである。

 温故知新、まさに足元とは歴史、文化、そして原点なのではないだろうかと、そして、それを踏まえた上でどのように努力、工夫をしていくのかが大切なのだと、獺祭という努力と勇気の酒を飲み感じた。

第464回 獺祭に学ぶ

 最近特に日本人の欧米化(西洋化)が顕著ではないだろうか。

 特に海外に行って思うのだが、流行こそ多少違えども、来ている服、街並み、食事など大差が無いようにみられる。

 ましてや、それが日本国内となってくると、昔は『全国津々浦々』なんて言ったが、今は同じ店、同じような道路、同じような服などで、ちょっと観光スポットにでも行かない限りは人が生活している風景は大きな変化がないように感じられる。

 逆にいえば、日本人の日本離れとい言い換えることもできるのではないだろうか。

 個人的な見解ではあるが、どこに行っても同じだと、若干寂しくも感じられる。

 そんな日本人の日本離れの影響を受けている業界の一つに『日本酒』がある。

 若者のアルコール離れも重なり、日本酒の売れ行きは40年前に比べて約75%も減少してしまっているのである。

 そんな日本酒業界の中で一人気を吐いている日本酒がある。

 山口県旭酒造さんが作る『獺祭』という日本酒である。

 ご存知の方も多いかもしれないが、アメリカ大統領オバマ氏が来日した際に安倍首相が手土産にプレゼントしたのでも有名になったが、1985年にくらべ、2013年は約17倍もの生産量を誇り、売上でみると、1億近い売り上げだったのが、2013年で40億近い売り上げと大きく変貌を遂げている。

 その大きな要因は経営の戦略とそれを実現するための具体的な生産管理とにあると思われる。

 少し紹介していきたい。

 旭酒造の経営者である桜井氏は『酔うため、売れるための酒ではなく、味わう酒を』ということを掲げ、徹底的に品質にこだわった。

 そのため、安価な普通酒ではなく、原材料の米を50%以上も削る大吟醸の製造にこだわってのである。

 中でも、『磨き二割三分』という獺祭の純米大吟醸は、その名の通り米を77%も削って作られる。

 そのため、誕生した酒は洗練に洗練を重ねたなんともすっきりとした、そしてフルーティーな香りのする、なのに味わいの濃い日本酒が誕生したのである。

 また、それらを安定供給するために酒造りの常識を覆す取り組みも行っている。

 それは、酒造りに必要不可欠な職人、杜氏の廃止である。

 徹底的な生産管理を行い、社員一人ひとりが生産に関わるようにし、責任感を持たせ、言わば、社員一人ひとりが酒造りの工程を担当しその年の出来不出来、職人の腕に左右されない品質管理、製造管理体制を作り上げたのである。

 さて、ここまで山口の旭酒造の獺祭を紹介してきたが、ここで言いたいことは、獺祭が旨いということではない。

 この獺祭の誕生までに、今抱えている経営の問題を克服できるヒントがあるのではないかと考えている。

 次回はそこに触れて行きたい。